腐敗した世界に祈る

 



白いコンクリートで囲まれた壁と、木の天井のどこまでも空々しいアパートの部屋。
日が落ちた夕方、わしは一人でそこに居た。まるで存在を拒んでいるかの様な内装を何となしに眺める。それでも、この家がないとわしらは生きていけない。かさついた唇で矛盾を噛み締める。多少不満であっても、今を享楽出来るのなら、実際は何だって良いのかもしれない。
しかし、奴を待っていたわしにとっては、明らかにこの時間は楽しいものとは言い難かった。苛々しながらも、今日の依頼内容を頭の中で反復して、暇を潰す。


「ただいま。」
がちゃりと開いた玄関のドアの音に振り返ると、待ちわびた仲間の一人であるチドリが立っていた。日に焼けない色白の顔は、人形みたいに変に綺麗な無表情を装っている。こないに人を待たせておいてその顔にはないやんか。まるで反省の色すら見られなかった。
「遅いで、チドリ。事前に依頼の事は言うといたはずやろ?」
わしは待たされた事よりも、その依頼自体忘れていたのではないのかという事の方が頭に来ていた。依頼主との待合時間もとっくに過ぎている今になって、ふらりとコイツは帰ってきたのだ。無関心もここまで来ると、癪に障るもんやなと、睨みを利かせてみる。
「お腹が空いてるの、何かない?」
それも意に介せず、答えにならない台詞を隣に座り込んだチドリが言った。突拍子な事を言われ、わしは面食らう。
「お前な。わしが今、何て言うたか聞こえてたか?依頼ほったらかして、どこへ、行ってたんや。」
ますます苛立ちが募って、知らん顔で堂々と座り込むチドリに、わしは強めの口調で詰め寄った。
「どこでも良いでしょ……ジンには関係ない。」
「そら、わしだって仕事でもない限り、お前と関わりたぁない。」
「同感ね、私もよ。」
けろりとした態度でチドリがわしの言った事に対して、返事をした。どこまでも白々しい奴やな、ほんま。
「ほんなら、いっこだけ忠告しとくがな。昼間はあんまのこのこ出かけるな。たださえ、わしらは目立つんや。」
「一般」という括りから自分達は逸脱している事を知ってはいるだろうと、あえてわしは釘を刺してみた。影時間であれば、誰も気にする人間は居ないかもしれない。しかし、昼間は下手に表立って歩けば、確実に奇異と興味本位の目に晒される。
チドリはそんな事を理解しているわ、と言った顔で眉間に皺を寄せていた。それを見たわしは呆れて怒る気も失せる。こいつに何言うても骨折り損のくたびれ儲けにしかならん。

「ジン。」
何か言いたげな声でチドリがわしを呼ぶ。前後の会話から察するに、食べる物を欲求しているのだろう。
「丁度こうてきたパンならある。」
「それで良いわ、ちょうだい。」
テーブルに置いてあった紙袋からかさりとパンを取り出すと、香ばしい香りが漂った。不満げな感情と一緒に、パンを軽く投げてよこしてやる。それを綺麗な爪をした手でチドリは受け取った。白い刺繍が施されたチドリのひらひらした服は、この古臭いアパートと並べて見ると、わしの目には酷く不釣合いにしか映らない。
「タカヤは?」
「あの人には先に依頼主とこいってもろうた。えぇ加減、お客を待たせとく訳にもいかんしな。」
「そう、ご苦労様。」
「アホか。思いっきりお前の所為やろ。ちっとは反省せぇ。」
そう愚痴るのを余所に、ふと、パンを口へと運んでいたチドリが顔を顰めた。それに気づいたわしは、横に座っていたチドリの顔を見返す。他人なら見逃す僅かな反応であっても、感情が大きく揺れている兆しで有ることをわしは知っていた。

「チドリ、どないした。」
「固い。」
「あんなぁ……しゃあないやろ。文句あんのやったら、自分でこうて来い。だいたいこんだけ時間経っとったら、パンだって硬くなるんや。」
聞き飽きた文句にわしはがっくりと項垂れた。駅前のパン屋で調達したとはいえ、パンが冷め固くなっていてもおかしくはない程に時間は経っている。そんな当たり前の感想をチドリは言った。
「同じね。」
「何や?はよう食って、タカヤと合流せな――」
余計な時間を浪費し、苛立ったわしの言葉を遮って、チドリが呟きを続ける。
「私たちも死んだら同じよ。そこらへんの人達と変わらない。」
一口齧ったパンを見つめるの表情は、何一つ崩れないままで、神妙にさえ思える。
「何をさらすかと思えば……えっらいおぞましい事ゆうんやな。やってられへん。」
悟る様に囁くチドリに対して、わしは漠然と話題を打ち切った。ただ、肯定も否定も出来ない感情が舌先に残る。確かに、心臓が止まれば人の身体は冷たくなり固くなる。極自然の理。わしらとて命が尽きてしまえば、その身体は土に還る摂理を外れる事はない。微塵もそこいらの人間と変わらない。自分らの欲を満たすだけの身体を器に、心なんてあってもないみたいに等しい。

わしは己の血を憎んだ。
あんな連中と同じ紅い血が流れているなんて、嫌悪感しか湧き上がらない。一緒にされたくなんかないと、親指の爪を齧る。考えるだけで背筋に悪寒が走りそうになった。

「でも、メーディアと一緒なら怖くないもの。」
そう言い放ったチドリをわしはちろりと横目で覗き見た。その目は虚ろな綺麗な金色をして光っている。恐怖を感じていない瞳は、どこも見ていない。まるで硝子玉みたいな人形の眼だった。覗いた傷だらけの手首と比べるとそれは本当に不似合いで、わしはチドリを不憫に感じた。
「……手ぇ切れとる。」
哀れみに満ちた手を伸ばし、チドリの手首を掴む。引き寄せた手首からは、鈍い褐色の傷痕達が白い包帯から見え隠れしていた。
「平気よ……触らないで。」
「お前の能力はよぉ知っとるが、毎度その傷を見る方にもなってみぃ。痛々しくてしゃあないわ。」
「見なきゃ良いじゃない。」
離してやると、触れた事を驚くでもなくチドリがわしを睨んだ。それに気圧されて吐き捨てた台詞も同情でしかない。
わしは、素早く近くに置いていた銀色のアタッシュケースを引き寄せた。この中には例の薬がどっさりと詰まっていた。効果が切れる前に薬飲ませなあかん、とぎっちりと敷き詰められた薬が入ったアタッシュケースを開く。傍から見ると物騒な物でも、自分らには必要不可欠なものだった。明日もそのまた明日も飲まないとお終いになるわしらの命。タカヤには出かける前に薬を持たしたが、チドリは渡していなかったと、もぞもぞと一袋引っ張り出す。
「私は要らない。そんなもの。」
薬を見つめ、早い口調でチドリが言った。その発言が何を意味しとるのか分かっとるんか。とわしは言おうとしたが、あえて言わなかった。どうせ、死を恐れてないコイツに言っても分かりはしないのだ。
「飲まんくても、死ぬのにか。」
わしもタカヤもそして、チドリも、もう一人の存在――己に等しいペルソナに抗えない。いつでも死んでおかしくない薬の副作用で、身体は日々蝕まれている。おぞましい実験の道具にされた幼かった身は、普通の人間では到底手に出来ない力を得ると同時に、精神を病んでしまった。ペルソナの開放によって狂気と悦びを貪り、日常は果て無い恐怖と苦痛に心は埋め尽くされてゆく。これ程、世の中狂った話は早々ない。自分達を殺そうとするのはもう一人の自分、だなんて。ちっとも理解したぁない。とわしは舌打ちする。
「分かってるわよ。だから、要らないって言ってる……――っ!」
拒否を示した声が不自然に途切れる。わしははっとして、チドリの方を見た。だが、既にチドリは細い首を両手で押さえ、もがいていた。その姿はどこまでも痛ましいものだった。
「しもうた。今日はタイミングが遅うなって、暴走が始まってしまいよったか……!」
多少は抗えるかもしれないとは言え、放っておけばほんの数分しかもたない内に、己の化身でもあるペルソナに殺されてしまう可能性の方が高いだろう。わしは慌てて、呼吸困難でしゃがみ込んだチドリの肩を支えて、上を向かした。
「チドリ、しっかりせぇっ!」
「くっ……あ……くる…し」
片手に薬と携えると、わしはチドリの口に入れてやろうとした。あまりの息苦しさに乗っ取られ、チドリは己でさえ口を満足に開けられやしない。このままでは薬を飲まそうとする事も出来ない。口を開かせようと、呼びかける。
「あかん。飲め、チドリ!まだくたばりとうないやろ!」
と、わしはチドリの肩を揺すった。ところが、益々苦しそうな呼吸は、荒くなっていくばかりだった。ひゅうひゅうと風が隙間を通る様な耳障りな音が、耳に届く。
「ううっ…く……っ!」
「手間ばっかりかけよって。こんのアホが!」
最終手段や、とわしは右手で無理やりチドリの口を開かすと、口に薬と水を含んだ。そうしてから、人工呼吸の手順を真似て、チドリの唇に荒っぽく噛みついた。酸素が足りなくなったチドリの口元はひんやりとしていた。
「ん……っ!」
口移しで薬を水と一緒に流してやると、飲みきれなかったのか余った水がチドリの頬を伝った。わしが塞いでいた唇を開放した途端、すぐに「ごくん」と水が喉を通っていった音が聞こえた。どうやら無事に飲み込んだらしい。素手で濡れたチドリの頬を拭ってやる。食いしばる歯を無理やり開ける過程で、わしの右手の指は噛まれ、血が出てしまっていた。血のぬるりとした感触が指を滴る。

「ちっ……お前の所為で血が出てしもうたやないか。もう大人しくしとき。」
「――ジン。」
今にも瞼がくっ付きそうなチドリがわしの名前を呼んだ。眠りに抗おうとして伸ばされた腕は、わしの服の裾を掴んで落ちていく。
本来ならこの薬には睡眠を促す効果はないが、チドリには効果がすぐに出にくい。だから、ペルソナの暴走で苦しむよりは眠りを促した方が楽だろうと思い、睡眠薬を少量だけ含ませた。間もなくチドリは、眠りの世界へと落ちてゆくに違いない。
「お寝んねしとく方がお前にとっては幸いや。ちぃとの間、寝ておったらえぇ。」
タカヤに連絡せんといかんなと、とため息をついて、わしは携帯を取り出した。




程なくして静かで安らかな寝息が聞こえてきた。チドリは、掴んだ裾を離そうとはしないまま、眠りへと誘われて、わしは一寸も動けなくなってしまった。こうなれば、どうにもならない時間が過ぎるのを、何をするでもなくただ待つしかない。
「わしまで痛がって、どないする。」
おもむろに重さを持ったチドリの片手を持ち上げてみれば、手首には血が染み渡った白い包帯がやたらめったらに巻かれている。傷を隠しているというよりは、チドリ自身それを見る事を拒んでいるかの様に絡まっていた、と言った方が正しいだろうか。青白い肌が一層、薄紅色の血の流れを鮮明に浮かべていた。しかも、指まで傷で埋め尽くされている。紅い跡が消えていないところを見れば、まだ真新しい傷だろう。

――最近、やってしもうた傷か?

そういえば、一昨日だか風呂場に剃刀が血だらけになっておいてあった事をわしは思い出した。その時はやった本人の事も分かっていたし、指して気にも留めなかった。だが、すぐに思い出してしまった事を後悔する。何でコイツの心配しとる、わしは。そんな思いを振り払って、チドリの人指し指に舌を寄せた。ぺろりと舌で傷口を舐め取れば、血独特の苦い味が口に染みる。あまりに苦くて、喉の奥が渇く様な錯覚を覚えた。わしの右手から流れ出ていた血が雫となって、ぽたりとチドリの白い服へ落ちていく。広がっていく鮮血の紅さが目に痛い。


「チドリ。」
寝ている相手に意味の無い呼びかけが狭い部屋に響く。チドリは、相変わらず綺麗なお人形さんみたいに横たわっていた。死んでいるか生きてるかも判別出来ない寝息は微かにだが、確かに薄暗いこの部屋でも聞こえる。チドリから目線を逸らさないまま、わしは誰かに聞いて欲しいと頼んだ訳でもなく、救いを求めた。

「どんだけ這い蹲れば、わしらは救われるんやろな。」


問いかけても、この腐敗した世界は答えてくれへんけど。










(2007.1.29)
大修正。おかんと反抗期の娘ちっくな会話なのは何故なんでしょう。(台無し)
ジンの関西弁が難しくて大苦戦しました。

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