夕闇の影踏み


 

「さ、帰るで。」

ゆらりと目の前に映る世界が揺らいでいく。意識が遠い。赤い血液が足らない感覚に襲われ、私はがっくりと膝を突いた。

「何しとるんや、チドリ。」

私の数歩前に居た男が振り返って発したのは、どう聞いても呆れた声だ。返事を返すのも気怠くて、黙ったまま硬いコンクリートと青白くなった指先を見つめる。そんなに面倒なら無理して関わらなければ良いのに、といつも思う。

「貧血か?」

黒く伸びた人影が目の前にまで寄ってきた。二度目の問い掛けの後ややあってから、顔を上げてみると、夕焼けを背にしたジンが顔を訝しげに覗きこんでいる。じ、と瞳の奥まで疑う視線にどうしても耐え切れなくて、ふいと目を逸らす。そういう類いの視線には慣れてはいたが、どちらにしろ嫌いだった。そんな眼で私を見ないで欲しかった。そこに存在出来なくなる様な気分になるから。そんな心中を察することもなく、ジンはハンと鼻を鳴らした。

「自業自得やな。毎日手ぇ切るのを繰り返しとれば、誰でも貧血になるわ。ペルソナを持っとっても血の補充は出来へんしな。」

手の辺りを一瞥される。私が自分で付けた手首の傷のことを知っているみたいな含みがある言葉だから、余計に意地が悪い。最も隠す理由もないけど。あの人以外は大して認知しないこの男が、私の行動を気にするのは珍しい。例え、それが嫌味に括られた発言であってとしてもだ。私はいつも気付くと手首に傷を作っていた。理由は自分でも分からないけれど、それが日常になっていった。無意識に増えては消えていくことを繰り返す傷跡に反して、痛感の感覚は薄れていく。とにかく自分を壊したかったのかもしれないし、この世界で生きている証拠が欲しかったのかもしれない。鋭利なものが側にあれば、手に取り、人知れずに傷つけた。

そのつもりだったのに、目の前の男は知っていた。変に聡いその鋭さが私は気に入ってはいるけれど、今は嫌悪を向ける要素に変わった。歯に着せぬ発言をするジンを恨めしく睨んで、両手を挙げる。


「おぶって。」
「お断りや。歩く気力ぐらいまだあるやろ?さっさとせぇ、自分で歩けへんのなら置いてく。」
「歩くのはもう嫌。」

ジンが顔をしかめる。私の力を必要としているのも、それ以上に今まで共に居た故に生まれた情を彼が捨て切れないことを私は知っているからこう言えるかもしれない。

「それでも置いてく。」
「……意地悪。」

こちらを見向きもしないで、あっさりと歩き出した背中を目で見送った。置いて行かれない保障はどこにもないのに、私は諦め悪く視線を突き刺す。

「いつまでそこにいるつもりなんや。動け言うたら動き。タカヤも向こうで待っとるで。」

すると、言葉の圧力に観念したのか戻って来たジンが私の側で背中を向けて、ちょいちょいと指で合図する。どうやらおぶってやるから、乗れ。ということらしい。少し頼り無い背中ではあるものの、私ぐらいなら受け入れるには十分な広さがあった。

「ほれ、だだこねてないで帰るで。さっさと乗り。」

黙って言われるままに狭い肩に手を掛ける。身体がすぐにふわりと持ち上がったが、思った以上の重みにバランスを取れなくなったのか、ジンは両足で踏み止どまろうと少しだけよろけた。

「っと……お前さん相手に期待はせんけど、ツケは倍返しや。」
「仇で良いならいくらでも返すわ。」
「んなモンいらんわ。」

あー重い重いと言いながらも、私を背中におぶって、帰路を目指す。その場所から住まいとしているアパートまでは10分くらいだけど、それは普通に歩いたらの場合だ。私一人抱えたジンはゆっくりと歩き進んでいるから、きっと向こう着く頃には日が暮れているだろう。

「まだ?」
「もうすぐ着くはずや、ちっとは大人しゅうしとき。人様、一人抱えるのがどないにしんどいモンか。」
「私、軽いもの。」
「自分で言うてるなら世話ないわ。確かにお前さんは細っこいけども。」
「ね……何か歌ってくれる?」

振動が止まる。ジンが歩くのを止めたからだ。

「うたァ?何でまた……歌なんか歌え言うんや。」
「暇だから。もしジンが音痴でも、我慢するわ。」
「まだ聞いた事もないのに決め付けるな。だいたいワシは歌をあんま知らへん。」
「何でも良い、歌ってて。」

暫く黙ったまま歩くのを再開したジンは溜め息を付いた後、こう言った。

「……ま、向こうに着くまで歌ったる。聞いた後で文句はなしやで?」
「別に期待してない。」
「そか。」

「ゆ〜うやーけこぉやけーで日が暮れてぇ〜」

それはとても関西訛りの歌だった。おかしくて思わず心の中だけで笑う。まるで、ここには赤い夕焼けとジンと私しか居ないみたいだ。空間を形取る歌が夕闇を流れていく。道行く誰かが聞いていたかもしれないけど、ほんとは誰にも聞いて欲しくなかった。私だけの為に謳われた歌だから。昔も今も変わらない酷く懐かしい響きがそこにあって、眠りを誘う。このまま眠ったら、帰るべき何処かに行けるのかしら。

「チドリ、起きとるか?」

その背中は温かいままだから、私は今日も生きてる。


 

――――――


「く……さすがに腰に来るわ。」
「腰痛ですか?なら、湿布でも貼った方が良いですよ。」
「いや、大丈夫です。大したことはあらへんですから。」
「ジンて案外体力無いのね。」
「ああん?お前さんがもうちっと軽うかったら、こないにはなっとらん。」
「……私のせいって言いたいの?」
「おや、女性に体重のことを問うのは野暮というものですよ、ジン。」

 

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