紅茶色の風景。


リビングというには少し狭い居間で、淹れたての紅茶を優雅な動作で啜った。鼻をくすぐる高級な苦みが舌を滑る。ゆらゆらと赤茶色の水面を見つめれば、無表情な顔が映った。

「今日は私の分のご飯は要らないから。」

カップを受け皿に置くと、チドリはそう呟いた。

「何や、急に……一丁前にダイエットか?これ以上細うなってどないする。」

肩の後ろ側――同じ空間にいたジンは不思議そうに聞き返した。夕飯を調達するのは専ら彼の役目であったが、タカヤもチドリも一人では大して調達する身振りすらとらなかった。食べなくては一日の活動に支障をきたすというのに、彼らには食という概念が薄い。心配して、何かしらは必ず口にさせていたが、それなのに、「要らない」とはどういうことなんだろうか。

「まさか、もうメシはすましてきたんか?」
「そういう意味で言った訳じゃない。」
「そないな意味やないなら、何やねん。」

訳がわからん。

ノートパソコンから一つも視線を動かさないままのジンが尋ねた。顔を合わせようともしない二人の会話が続いていく様は、第三者の目から見れば何とも異様で、彼らにとっては取るに足らない日常風景でしかなかった。チドリは手に持ったカップを見つめ、ジンは光るディスプレイを見つめたままで会話は尚も続いて行く。

「分からないならそれで良いわ。せいぜい悩んでて。」
「今日はえらい刺々しいな。元よりがりがりなんや。少しはお前、こう、ふっくらふくよかな方がええんとちゃうか?」

意識はせずに、横に置いてあったコーヒーを無造作に啜る。その言葉にチドリは盛大に眉を顰めた。何を急に言い出すかと思えば、この男は。

「……ジンのヘンタイ。スケベ。」

不愉快さを露わにした発言に、キーボードを叩いていたジンは動きを止めた。紅茶を飲み切ってしまい、そそくさと台所へ向かおうとしたチドリの手首を容赦なく掴む。

「言いおったな、このアホが。今回ばかりは聞き捨てならん。覚悟は出来とるんやろうなぁ?」
「何よ……ジンのくせに。実力行使?」
「毎度、言葉の暴力をふるうお前に言われたかない。」
「なら、こっちから仕掛けるべきかしら、ね。」
「いたっ!つ、掴むな!はなひぃ、ひほぉり!」
「何て言ってるか分からないわ。もっとはっきり言ってくれる?」

何とも形容しがたい痛みが顔のある場所を通り、ジンは掴んでいた細い手首を思わず離してしまった。一瞬だが強く鼻の先を掴み、離すといった荒技をチドリはしてのけた。

「……離せ!って言うとるやろ、こんの馬鹿っ!いい加減どついたるか!」

摘まれ赤くなった鼻を片手で押さえ、もう片方の手に拳を作ると、ジンは抗議した。肝心の彼女はというと、やってられないといった冷ややかな視線で、彼を見下ろしている。

「やってみれば?」
「ふ……ふはは!望むところやっ!今更、このわしに喧嘩売ろうた事、後悔しても遅いで!」

馬鹿馬鹿しい、とため息をつくチドリの静かな挑発に、不敵な笑いで答えたジンは、机を叩くとすぐに立ち上がった。絶対零度の瞳を睨んで、対峙する。そして再びその手首を掴み、詰め寄った時だった。

「ジン、今日の夕飯は何でしょうか?」

タカヤがふらりとどこからともなく、二人が睨み合っていた居間に入ってきた。こんな時に限ってタイミングが悪い人だと、ジンは固まった。いや、後ろめたい事はこれぼっちもないはずなのだが、この体勢がまずい。どうみても今現在、近い位置に顔がある。これでは自分が彼女に迫っているみたいに見えるではないだろうか。

「……」

そんな状況のまま、気まずい沈黙が三人の間にしばらく流れた。もしかしなくとも傍から見れば、ただならぬ雰囲気さえ除けば、二人は恋人同士に見えない事もなかったかもしれない。

「これは失礼しました。私は邪魔だった様ですね。」

案の定、その光景に遭遇したタカヤは、何を勘違いしたのか二人に謝った。身を翻すでもなくその場に立ち尽くしてしまった彼を、チドリは不思議に思い声を掛ける。

「タカヤ。」
「まさか……今の見とった?」

ジンは唖然とした。だが、何か言わなくてはとくるりと首を回し、タカヤの方に向き直る。おかげで手首を開放されたチドリは、この状況を否定するでもなく、黙って二人の男を見比べた。

「はい、ばっちりと。」
「わしは無実やっ!」

自分が悪い訳では決してないが、否定せずにはいられなかった。一つもやましい事はあらんとジンは自分に言い聞かせ、どうやって目の前の人物の誤解を晴らそうかと必死にセリフを繕えていく。

「ほらな、これはちいと――チドリの奴が」
「言わずとも分かっていますよ、ジン。貴方が言いたい事はよく分かります。」

しどろもどろに弁明するジンの肩にタカヤは手を添え、静かに諭した。その行動をみる限り、どうやら要らぬ誤解は免れた様だった。

「タカヤ…!」

そうか、あんたならよぉ分こうてくれると信じてたわ。と続く言葉をジンは言おうとしたが、すぐさまその台詞を紡ぐのは叶わなかった。

「ですが、男性誰しも時には大胆な行動も必要かと。」

見事なまでの意味の分からないアドバイスを、タカヤは目の前で口の塞がらないままになってしまった彼に託した。それを見たチドリに至っては、涼しい顔して、自分には関係ないとジンと目を合わすことはしなかった。

「だって。」
「……何の話やねん、コラ。」

どないしてわしの周りには、こないな奴らしかおらんのや。毎晩の夕飯のメニューで悩むよりも、この二人の方がずっと頭を悩ます難題であると、ジンは思った。

 

 

 

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