静寂の温度

 

 



 幼い頃は良く覚えていない。
  おぼろげな記憶の中覚えているのは、白い壁に囲まれた狭い部屋と薄暗い照明の光だけ。
  知らない大人達のざわめきと、耳を塞いでも聞こえてきた、たくさんの悲痛を含んだ幼い声。
  そして、確かな明日を知らないままの世界で生きていた自分達がいた。それらの場面が幾つにも切り取られては、消えて行く。






 全ての音が闇夜にすいこまれてしまう真夜中、チドリは何かに呼び起こされた様に、目を覚ました。
いつの間にか汗ばんでしまった喉元に髪の毛がうっとしく張り付いている。それを手のひらで払ってから、チドリは辺りを見回した。さっき見た夢のせいで、まるで違う場所にいる様な錯覚に襲われ、心許無い自分の居場所を確かめたくなった。暗がりでも判る部屋の風景が、確かな安堵を覚えさせてくれる。必要なものしか揃えていない小さな部屋は殺風景なものであったが、彼女のお気に入りだった。寝る前にそのまま描いていた物を投げ出してしまったのか、スケッチブックと鉛筆が床に転がっている。
そんな自分だけの空間に居ながらも、嫌な夢を見てしまった、とチドリは不愉快な映像を消し去るように目を伏せた。それでも、まぶたの裏にはその鮮やかな残像が容赦なく滲み出てくる。
「嫌な夢。」
 見たくて見た訳ではないから、尚更だった。ぽつりと囁いた言葉さえも遠い。十分温かくなっているはずなのに、この身体は寒気まで感じている。チドリは両手で自分の肩を抱き締めた。微かでも鮮明で苦々しい記憶を、まだ忘れてはいなかったのだろうか。今も凍えてしまいそうな悪寒が全身を覆い、更に底知れぬどこかへと貶めてしまおうとしている。

――せっかく、忘れ掛けてたのに。

 膝に顔を押し付けて、深く息を吸い込む。呼吸を整え、また布団に潜りこもうとしたが、ふと、ドアの隙間から覗く白い光が、自分の顔を照らしている事に気づいた。ドアの向こう側はリビングで、チドリが部屋に戻る頃は誰もいなかった。つまりは、同居人であるタカヤかジンが寝てしまっているのなら、本来、そこは真っ暗であるはずだった。こんな遅くまで誰か起きていたのだろうかと、そっとドアノブを捻る。



「また夜更かし?」

 ドアを開ければ、リビングの椅子に座り眠る人影――同居人であるジンだ。側には深夜になってからも作業していたのか、電源が入りぱっなしになったノートパソコンの画面が光を放っている。
いつもの光景だとはいえ、先ほどの夢を見た後では、この気配は心臓に悪いものだった。チドリが投げ掛けた質問に、返答がないところを見ると、随分と彼の眠りは深いらしい。眼鏡をしたまま机に突っ伏して寝ているジンに近寄ると、その温かいであろう背中にチドリはゆっくりと顔を押し付けた。腰に手を回して、身体と身体の間隔を零にすれば、程よい温かさが体に染み渡る。今日は夢見が悪いのも含めて、この行動に意図はなかった。無論、意味付ける気も彼女には無く。ただ暖まれさえすれば、それで良かった。その背中に触れた感触に気付いたのか、ついさっきまで寝ていたジンは顔を持ち上げた。

「んぉっ、……チドリ。どないしてそこにおる。」
寝ぼけ眼で自分の背中にいるチドリを見やる。ずれてしまった眼鏡を直してから、瞼を何度か瞬かせる。他人を警戒する事の方が断然多いチドリが、今まさに自分の背中に引っ付いている。相手がジンでも誰であれ、それはとても珍しい行動だった。
「別に、寒かっただけ。」
チドリがぽつりと感情の無い声で答えると、そうか。と、ジンも小さな声で返した。寝ぼけているのかただ単に面倒なのか、チドリを引き剥がそうとはせずに頭を掻く。いつもの彼であれば、癇癪を起こして何があろうと突き離していたが、ジンはどうでも良い事のように額を机に押し付け、眠る態勢を取った。

「おーおー、少しも可愛げの無い事で。まさか、怖い夢でも見とったか?」
顔を横に向けたついでに、噛み殺せなかった欠伸を一つして、ジンは背中越しにいるチドリに声を掛けた。
「違う。昔の夢を見ただけ。……それと”可愛い気の無い”は余計。」
忠告を付け加えるのを忘れずに、即座の否定。確かに嫌な夢ではあったが、恐怖とか嫌悪という単語で言い表せない虚無感をチドリは感じていた。
「ま、昔っちゅうと、しょうもない事しかわしらにはあらんなぁ。」
ジンは肩をすくめた。身寄りは無いし、意味の分からない実験に巻き込まれるしと、良いことは一つも無かったと思う。あえて良いことがあったと仮定すれば、チドリとタカヤに出会い、普通の人間とは違う時間を生きていることぐらいだろうか。天を仰ぐ様に顔を天井に向けると、ジンの後頭部はごつんと音を立てて、チドリの頭と軽くぶつかった。
「ずっと起きてたみたいね。」
彼の目元に出来た隈の深さを見れば、どれだけの時間起きていたのかが一目で分かった。眠気を抑える為に飲んでいたのか、すっかり冷め切ったであろう珈琲の入ったカップが机に鎮座している。
「知らんがいつの間にか寝とった。」
「そう。」
興味が無さそうに目を閉じると、チドリは彼に気づかれない程度に体重を傾けた。ジンは大抵、深夜の影時間を過ぎても、復讐代行の依頼を片付ける為にパソコンを弄っている。チドリはそれを別に不思議にも思ったことも、違和感を感じることもなかった。タカヤと自分ではそういった細かい仕事は手に負えないし、得意とすることでもない。だから、機器に詳しい彼に任せておくのが一番良い。それが一番スムーズに事を運べると、タカヤも同意した。当の指名された本人はとても不満そうではあったが。

「ジン。」
「何や。気ぃ済んだのやったら、部屋に戻り。わしも布団に寝る。」
「嫌ー―って、言ったら?」
その温かさを手放すのが惜しいのか、チドリがまるでジンを試す様な口調でいった。
「は?……おちょくっとんのか、お前。こないなトコで寝つくつもりか?」
疑わしいと言った顔つきで、ジンは眉間に皺を寄せた。
「それが嫌なら、いつもみたいにすれば良いわ。」
「ふんっ、生憎そないな気力はあらへん。残念やったなぁ。」
「そう、残念ね。大いに。」
至極感情の無い声でチドリは呟いた。
「せやから、あかんて言うてるやろ。えぇから、はよ、離しぃ。」
「そうね。いつものでも、してくれたら離してあげる。ただし、ジンにその度胸があるならだけど。」
”いつもの”と突きつけられた、チドリの脅迫紛いの我が侭に、不機嫌に眉を吊り上げる事しかジンは出来なかった。彼女のお得意の”我が儘”が始まったら、こっちが折れるまで、押し問答が続くのだ。そんな面倒はいらないとばかりにジンの目つきは険しくなった。
――完全にわしを馬鹿にしとる、コイツ。
「嫌なの?」
押しに弱い彼の性格を承知で、チドリは釘を刺した。嫌なら断ってくれても別に構わなかったと思っていたし、ただ変な夢を見たから、何となくからかったに過ぎない。
嫌とかそないな問題やなくて。と、ジンはチドリに突っ掛かりたかったが、あえて言葉にはせずに飲み込んだ。身体を持ち上げ、額に手を当ててから、溜め込んでいた息を吐く。どうやったらこんな難題を回避できるのか。それが第一やと、ジンは考え込んだ。チドリは次の言葉を待って、じっと動かない体勢で背中に伸し掛かったままでいた。絶対逃がす気ないのない彼女をみて、ジンはやっとの思いで口を開く

「そないな事、急にしろとぬかす方がおかしいわ。……物好きやな、お前さんも。」
「お互い様でしょ。」
「……したら、ほんまに戻るんか?」
「うん。」
短い簡潔な台詞が返って来る。
顔は見えないはずなのに、笑う様な軽いテンポを含んだ返事に、ますます複雑な気持ちにジンはなった。毎度、気紛れな発言に観念してしまう自分も自分だ。悪循環を抜け出せない相性の悪さに、勝てないとはつくづく不甲斐ない。
「……こないな時だけ、えっらい聞き分けええ返事しよって……」
「何か言った?ジン。」
「気にせんでええ。こっちの話や。」
つい、独り言が漏れてしまったらしい。普段これだけ聞き分けが良い彼女であれば、どんなに楽であろうか。という考えが虚しくも頭を掠めた。
「ほら、こっち来」
チドリは身体を少しだけ前に乗り出すと、顔を彼の耳元までに移動させた。吐息が感じられるくらいに近い距離にチドリが来ても、ジンは指して気にしなかった。彼女を異性として意識するには一緒に居すぎた。こんなに近寄られても少しもどきりとしない。けれど、これからしようとする事を思えば、生憎平然としていられる程の度胸は持ち合わせていなかった。どうにかして動悸が早まるのを押さえつけている自分がここにいる。
「そう言うたわしも同じ針の筵か?ほんま、呆れるわ。」
ぶつぶつ言いながらも、首を回してジンはチドリの顎に指を添えた。口元を近づけ、柔らかな唇にそっと触れれば、何かに熱を奪われてしまった様にチドリの唇はひんやりとして、冷たい。それだけが彼女が見たという夢の内容を物語っている様だった。今更、彼女の夢について追求する気はこれっぽちもないが、嫌な夢を見たというのは図星だったのかもしれない。
チドリはジンの服を掴んでバランスを取った。触れただけの唇がやけに熱く感じられる。他愛ない行為に本気になっているかもしれない、とチドリは頭の片隅で人事の様に考えた。
「ん。」
思わず、身を捩じった。足が竦みそうなのをどうにか堪える。共鳴する様に彼の背中に寄せた胸の辺りも熱を帯びていく。もうこれ以上は踏み込むなと、チドリは手で彼の肩を押して抗議したがびくともしないままだった。
「こら、動くな。」
離したかと思えば、もう一度味を確かめる様にチドリは口元を掠め取られた。あげく、手探りで手首を捕まえられてしまった。指導権はこちらにないとでも主張したいのか、チドリは動けなくなった。そんな彼の咎める言葉ですらも、今日は優しく聞こえる。
(馬鹿みたい。こんな事に本気になったって仕方ないのに。)
チドリはふいに苦しくなって口元を離した。遠ざけた口先が湿って、艶を放つ。部屋はとっくに照明が落ちていたので、彼女の顔もよく見えないはずだったが、嫌にその部分だけがジンの目に付いた。
「離して……ジンの変態。」
悪態を突いてから、チドリは彼の顔を軽く睨んだ。たった一回のつもりがこんなことになるだなんて、これ以上のことを言える訳もなく、濡れた口を裾で拭う。誘ったのは自分の方だったが、形勢逆転は望んでいなかった。
「追加サービスはせんで。」
不意を付かれた表情を浮かべたチドリに、冗談めかしてジンが自嘲気味に言った。にやりと持ち上げた口元が憎らしい。と、同時に酷く憂鬱だった気分が少しだけ晴れた気がした。
「いらない、そんなの頼んでないもの。」


「私はもう寝るから。おやすみ。」
不思議と心穏やかになったチドリは満足そうに微笑を称えると、ジンに背中を向けて、部屋に戻っていった。今夜はもうあの夢を見ることなく眠れそうだ。

「何やねん、アイツ。」

再び静けさに包まれたリビングでぼやく。ジンの頭には、変に明るみを帯びていた彼女の声のリズムが残っているだけだった。彼女の所為で、目が冴えてしまったことを認めざる負えないまま、夜が更けていく。全く不愉快なモンや、とジンは再びパソコンの画面を見つめた。












(2007,2,18)
僭越ながら利華さんに贈らせて頂いた代物。
ジン×チドリ目指して、玉砕。精神的にはチドリ×ジンなオチ。異様に甘くなりました。

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