虚空を仰ぐ蒼

 

 

 

 

 

 

救えない刹那を生きること。

 

 

 

 

「どした?」

 

背中の斜め四十五度からの気配。


ソファー越しに小さな白い手が伸びてきて耳を摘む。
余計な警戒はしなくて済んだ。
常に緊張感に包まれた戦場でなく、ここは憩いの場というのも
ある。けれど、その他に理由があった。
その腕はとても良く知っている人間のものだったから。
敵ではないと無意識に安定を図れるのも、慣れきった惰性の賜物か。
軍に属する人間の一人なら、鍛錬が足りないと反省するべきかもしれない。

 

「耳のそれ、何?」

「これ?」

「穴開いてる?……痛くないの」

 

確かなのかと疑うようにアーニャは顔を寄せて、
細い指先で耳に嵌められた冷たい物質を遠慮なくこづく。
耳元でかちりと金属音が振動した。
至近距離。
意図なく肩に寄りかかる髪と手はやわらかく温かい。

 

「まさか。穴なんて開いてないぞ。」

「痛い?」

「カフスっていう装飾品。挟んでるだけだし、痛くない。」

 

かつかつと爪先でいじる。
実際、ピアスなんかしてたら口うるさい誰かしらに
咎められそうだが、そうなるとアーニャの格好も規範を超える範疇だ。
誰も何も言わない様子からして別に違反ではないんだと認識している。
ま、言われても直す義理もないけど。

 

「ふうん。」
と言って、彼女は興味を失ったのか、立ったまま携帯を弄り始める。

 

「これ、そんな珍しいものかねぇ。」

「別に。今付けてるのに、気づいただけの話。」

 

珍しく興味を持ってくれたと期待して、それをあっさりと棒に振るのが彼女という人間だ。
出会って長いとも短いとも言えない時間。
けれど、仕事とはいえそれなりに一緒に居たはずだ。

 

「ほんと今更な。撮った写真とか、見てたらわかるものじゃないか?」

「そこまでジノを見てないし。撮ってない。」

 

こちらを見ないままにつれない返事を返される。

 

「そうだ!確か前に撮ってくれたの見せてくれたよな?携帯、貸してみろって。ほら。」

「あ……」

 

アーニャが常に所持している携帯をするりと攫って、
内蔵カメラで撮影された多くの写真からある一枚を探る。

 

「あったあった、これとか!ちゃんと付けてるだろ?」

「わかったから返して。」

 

「どうも。」と腕を伸ばして、ぽんと手の平へ返す。
同時にじとりと睨まれたような気もした。

 

「けど、小さいからよくわからなかった。」

 

ふと、小さな呟きが響く。
いや、聞こえるようには言ってるから返答しても構わないという合図か。

 

「おいおい、いつもどの辺り見てんの?」

「いつも……目の辺り?」

「そっか、目の辺り。……待て待て、アーニャ。なんでそこしか見ないんだよ!」

「ジノの目、蒼くて綺麗。だから、記憶する。」

 

紅色の目を伏せたまま、アーニャは淀みなく答えた。

何で、つぎはぎばっかりの記憶に覚えておきたいというんだ?

どうしてそんなこの瞳を綺麗に思うんだ?

清清しい空の色している瞳とは似つかない愚行を犯してる
自分が自分でなければと願って仕方ないのに。
いっそのこと冷たく真っ赤に染まってしまえば良かった。
つま先から頭まで血の廻る感覚が襲ってくる。
まずいな。ほんとまずい。
それでも、狼狽を顔に出さなかった自分に惜しみなく賞賛したい。
彼女――アーニャ・アールストレイムは判っていない。
朗らかに微笑んだように紅い瞳はゆらめく。
血液の紅よりも濁りない透き通った色。
更に愛おしさが募って、ますます求めてしまうっていうのに。

 

「あのなぁ……なあに、からかうつもりだ。真顔で冗談はなしだぞ。」

「嘘言ってない。いつも空みたいな目だと思ってた。」

「なら。アーニャの目は、ワイン色ってところだな。」

「……ワイン?」

「すごく透き通ってる。」

 

少し苦い顔された。
大方、血の色みたいだとでも比喩されると思ったんだろう。
年頃の女が好む綺麗事が大嫌いな彼女は
いささか軍人として淡々としすぎている。
相手を殲滅する任務をこなしても。朽ち行く人間の嘆きを聞いても。
一瞥だけして突き進む。
けれど冷徹に容赦なく制裁を加えるくせに、不安定な精神が
どこかしていることを無理に納得させている節が見られた。
命を奪うことに揺らぐ幼い心。
だから、本当はここに居たらいけない人間だっていうんだ。
俺なんか以上に。一応解っててここへ来たんだろうが、
戦の高揚感に囚われて心の許容範囲を超えたとき、
決まって彼女は善を越えたことをする。かと言って、
上の指示であくまで予想された範囲で実行するのだから、
非常に性質の悪い癖だった。
その血に塗れてしまった腕を欲しがる自分も救えない一人かもしれない。

 

「んあ?何してんの?」

「……気持ちいい?」

 

変化のない顔から意味ある思考は多分ない。
数回、血の気の薄い耳たぶを撫でるのを繰り返される。
今度は他愛ない遊びに走る訳ですか。

 

「いんや、くすぐったい。更にいうなら、なんか変な感じ。」

 

むずむずとする様な、弄ぶ手が妙に好ましい感触を引きだす。
微かに生まれた衝動がアーニャのもうかたっぽの腕をゆっくりと引き寄せた。
華奢な身体もそれに伴って、こちら側へと移動する。
顎の下に顔を滑り込ませ、立っていた彼女を見上げ、
言い放つ。

 

「なぁ、お返しして良い?」

 

足りないと渇きを満たすだけに求める。
これ以上我慢が利きそうにないなら、いっそこっちから
言ってしまえば楽になれそうじゃないか。

 

「聞くだけ野暮。何て答えて欲しいの?」

「アーニャの捻くれもん。――けど、良いな。そういうのも。」

 

笑って肯定したら、酷く驚いた目で見られた。
不機嫌な表情が浮かんだ彼女は、無音のため息をつく。

 

「救えない。ジノも相当くわせもの。」

 

確信を付いた台詞にくらりと眩暈がしそうだった。


知ってるさ。
何か黒いものが這いずり回る瞬間があるって事ぐらい。
よく理解してる、俺は俺自身だし。
そして、俺達は同じ様に命を奪った重罪を負っていて、
世間曰く到底救いようのない哀れなる人間に当てはまるらしい。
今更だ。
軍人とはそういうものだろ。
ナイトオブラウンズに居るということはそういう汚名も被る。
選出された時点で覚悟は出来ていたし。
どう非難されても痛くも痒くもないところまで罪悪感が麻痺した訳じゃなくて。
気づかないフリしてるだけだ。
なんなら、すっきりと忘れたいけどそれは無理に等しくて。
いつからか割り切るしか選択肢がなくなって。

 

 

「そりゃあ、似たもの同士の間違いだろう。」

 

そう言い放って、腰を引き寄せて
まんまと薄紅色のふっくらした唇に到達した。

少し啄ばんでから、温かい内側へと侵入する。

口内に広がる柔らかな甘酸っぱさ。

適度な酔いを起こす温かさ。

 

 

 

ああ、やっぱり彼女はワインそのものだったのか。

一緒に堕ちてくなら怖くないか、どこまでも。

 

 

 

犯した罪を赦されないままでも。

 

 

こびり付いた穢れは落とせないままでも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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