足りないんだ、圧倒的に。
この渇きを満たすものが。
この身体が
この手が
この頭の中が
真っ赤に血塗られて歪んでいることなどとっくに知っている。
俺が高みを目指したその時から、ずっとずっと。
なんせ社会から拒絶されるべきに等しい人間……いや、恐れられる怪物だからか?
日常過ごしている姿は誰も想像出来もしないし、しやしない。
だが俺は見つけたのだ、俺の世界と生きてくれる人を。
強くて美しき人を。
何も言葉を口にしない金色の眼は不条理や不満を何もかも己に押し込めて生きて来た事を雄弁に語った。自分と父以外は信じなかった、彼女の中には誰にも触れる事を許さない世界があったとも。そんな彼女を最初は同情じみた理由で助けたのかもしれない。だが、違った。彼女が彼女である限り、俺は俺であるだけで良いと教えてくれた。他に何を望むというんだ。どうにもならない俺自身は。
「惨めなお前を憐れんでやれない。俺も相当惨めな人間か?……なあ!どうだ分かるか?これが俺なんだ。」
肉塊と化した誰か人であったものに一人問い詰める。よくぞ己がした事ながらも酷く無惨な状態になったものだと思う。
――今日は苛ついて気分が悪いな。くそ。
と頭の片隅で考えては苛つきが募るばかりだ。どこかの町の一角で暗闇の中に俺は居た。闇に息を潜めるでもなくただ仕事を黙々と遂行する。
行為だけを見るなら興奮状態にあると言えるかもしれないが、思考は至って冷静だった。周りには二つ名通りの葡萄酒の様な赤い水溜まりが夥しく広がっている。俺の問いに誰も答えない。誰かに答えて欲しい訳でもないが、既に俺以外は体の熱を失っていた。まさに『死人に口なし』とはこの事を言うのだろう。
「……と、もう答えられる状態でもなかったか?悪いな仕事なんだよ。」
足元の赤い液体は空気に晒され、黒ずみ始めている。その上をひたひたと何事もなく歩く。嗅ぎ慣れた匂いに顔をしかめることもなく、俺はその場を離れようとした。
「疲れたな。さっさと……。」
こつこつと甲高い音が暗闇に紛れて近付いてきている。
――誰だ?
さっきまで感じなかった気配だ。この俺が対象を取り逃がすことはまずないので、多分通行人だろう。もしかして依頼主の奴か……?痺れを切らして様子を見に来るなんて随分せっかちだ。
――やれやれ、ご苦労な。こっちは疲れてるっていうのに。
だが、予想に反して近寄って来た影は俺がよく知る人だった。俺に迷い無く近寄る人影は街灯の前で止まると、夜に埋もれそうな黒髪と金色の眼が輝く。
――なんでこんな夜中に出歩いてる?危ないな
と思いつつ、婚約者であるシャーネに声を掛ける。
「夜歩きは感心しないな。」
「……っ!!」
その眼下に広がる無情な風景と血溜まりに身を一歩引いた後、彼女は無言でナイフを構え様子を伺う。
――そりゃびっくりするか、普通は。
気配で分かってくれだとか言わないが、声を掛けてすぐに本人だと認識してもらえないとは、少々寂しい気分になる。憶することなく側に寄るにつれて、警戒したままのシャーネは後ろへ下がるだけだった。
「シャーネ。俺だ。」
「…!」
至ってやんわりとその愛しき名を呼ぶ。すぐにその声が俺だと確認すると、シャーネは二挺のナイフをしまった。返り血だらけの俺をじっと見ると、何故ここにいるのかと疑問の眼で尋ねて来る。
「なんというか……まあ、仕事だ。あのな。丁度見られたくないとこだったんだが……と、もう無理か。」
自分でも情けないほど狼狽した声音で答えた。こめかみを掻いてどうしたものかと、必死に次の言葉を探している俺は滑稽なものに違いないだろう。
(貴方が殺し屋なのは最初から知っていた。)
そう答えを返すシャーネの声がやけに頭に響く。
「そうだったっけか?」
(あの姿を見て判らない方がおかしい……でしょう?)
真っ直ぐな視線に射抜かれる。彼女の声は実際には無いのに、聞こえて来る意思の声は実にはっきり存在していた。他の奴等にしてみれば普通でない俺だけに聞こえる声。肩を竦めて、顔に付いた返り血を拭う事もせずにその声に応える。
「そりゃそうか。俺の殺し方は有名だもんな。分からない方が珍しいさ。」
「……。」
「でも、シャーネだけは見られたくなかった。他の奴等なら強さ自慢ならいくらでもするけど。」
改めて本音を吐く。目線を下に落とし、足下を見る。心許した彼女の前では偽りは無駄でしかなかった。なのに体を流れる赤い血は真実を濁らそうとする。初めて会った時も俺は血塗れだったが、シャーネは現場を見ていない。汚い殺し方をする俺は必ず返り血に塗れてしまう。しかも人を殺しに掛ける時、口を歪め笑っているらしいのだ。たまたま現場を見たベルガの奴には「お前の狂ったイカれ加減はむしろ賞賛に値するぜ。」と言われた。
現に俺は本当に笑っているのだと思う。それは決して相手を恐怖に植え付ける、脅し類のものでなく。高みを目指し続けたその強さで己の正義に反した者を貶める。その時こそ今まで積み重ねた努力を認めてもらえた様に錯覚するからだ。どうしようもない俺自身が笑えてくるのだ。
(どうして?)
不思議そうにシャーネが首をかしげる。
「できたら、知ってても殺ししてる最中は見ないでくれた方が助かる。もし……もしかしたら俺自身がシャーネまで傷付けちまうかもしれない。絶対に有り得ないと知っているが、万が一そうなったら死んでも死に切れない気がする。……まあ、なんとなくだが。」
「……。」
諭す様にそれは違うとシャーネは無言で首を振った。
(私は貴方を傷つけないと決めた。貴方も私を守ると約束してくれた。この世界は自分のものだと貴方は言った。)
「そうだな。そうなんだシャーネ。世界は俺の為にあるから、絶対死なない。むしろどんな物にも勝ってみせる自信がある。……だからか?怖いんだよ。俺以外は死ぬから。」
「……。」
「それこそ礼儀とは言え、俺はやり過ぎる嫌いがある。無惨にためらい無く何もかも、な。」
(……疲れてるの?)
「うん?あぁ……今日は疲れてるみたいだ。……忘れてくれ。そんなのは当たり前の話、か。」
(私も目的の為に人を殺す時がある。だから、貴方を責める理由は無い。)
「いや、俺は。」
一呼吸置いて彼女が言葉を続ける。
(けど、本当に苦しいのなら辞めてしまえばいい。)
「辞めてしまえば良いか……シャーネには親父さんの為という理由があるだろう?俺のとは似ても似つかない純粋な目的だ。」
(ううん、同じ。理由があってもこの手が血に汚れるのは……変わらないから。)
「同じじゃあないさ。相手が盾つかない限りは殺さないが、仕事は別だ。そいつを殺してくれと言われたらそれまでさ。俺は殺し屋だからな。……余程の事がなきゃ殺さないという選択肢に覆らない。依頼主を裏切るなんて訳ないが、醜い汚い奴等にはうんざりするのも事実かもしれないな。……大切な物を傷つける奴は特に。」
「……」
「だが、俺は自分の強さを試したいだけだ。どこまでもどこまでも。頂上が見えるまでな。」
もうそんなに強いのに?とシャーネが俺に尋ねた。
「限界はないと思ってる。シャーネの世界を守れるくらいに強いから、俺。」
それを聞いて、シャーネはこくりと照れたように頷く。
「じゃ、そろそろ帰るか。シャーネもジャグジー達の方に戻るんだろ?」
「……。」
「返り血はどうするのかって?落として戻るよ。」
シャーネの目線は俺の服に止まったままだ。べっとりと付着した血が斑に服を染めている。こりゃ相当洗わないと落ちないか。本来なら別の服に着替えれば済むのだが、生憎今回は替えの衣服の持ち合わせがない。新たな服を買いに走ろうとしてもこのままの状態では店員にかなり怪しまれる。だから人目に触れず、戻らなくてはならない訳だ。くそ、面倒くさいの一言しか思い浮かばない。
(どうか。どうか私の前から消えたりしないで)
すでに帰ったと思っていたシャーネの声に呼ばれる。
「シャーネ?」
「……」
目を伏せたまま暗い表情でシャーネは黙り続けた。重たい沈黙を見る限り、どうやら先刻の事でとても不安がらせたと分かった。
「大丈夫だ。シャーネ。」
(……本当、に?)
「こう見えても一途だからな俺。心配しないでくれ。」
「…………。」
まだ納得行かないのか少しだけ不機嫌に眉根を寄せている。
「ちょ、っと待った……シャーネ!血がつくから、っで――」
あからさまに手を引っ込めようとして、思いとどまる。まるで母親と手を繋ぎたくないと駄々こねている子供みたいではないか。
(離したくない。)
「…………手、汚れるぞ?」
(大丈夫。)
珍しく短くて刺々しい言葉に俺は驚く。 たぶん心配してくれているのだ。心底嬉しいのだが、彼女相手だと扱いに困った。怒っている場合はどうしたら良いんだろうか。
「シャーネ。」
「……」
彼女は振り向かない。
「誰かの血で汚したくなかった。」
だから、身勝手な俺は今更綺麗な手で居てくれと言うのだ。我が儘で一方的な願望。誰よりもこの手で叶える自信がある。そう思う俺が何より彼女に弱いからだとも気付いた。
――俺が……負けたみたいだ。
何者にも負けた事はない俺は繋がれた手を握り返す。こびりついた血の匂いはしばらく取れない事だろう。
夜の闇は黒く俺の世界を押し潰す様に更けてゆく。確かなのは手を握る彼女が温かいことだけだった。
クレアの狂気を少しでも表現しようと四苦八苦。
シャーネに主導権がいくと、途端にへたれるクレア…
こんなはずでは…!どんだけ私はクレアをへたれさせたいのでしょうか(^^)/
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