錆び果てた願いをこの身に刻む

 

 

 

 

 

 


 

 


日に焼けた赤毛と燃えるような真紅の眼に目が眩みそうになった。

 

それらは全てを飲み込もうとする畏怖から、私を安堵させる要素へとすり変わった。

 

護ろうと決意したのは何時の頃だったのかさえも、

 

 

その男に出会ってしまった今は思い出せない。

 

 

 

 

 

 

 

「本当に声が出ないんだな。」

 

純粋に不思議がる眼は無邪気な子供の様に私を映し出していた。
ベッドに腰掛けて居た私はほうけたまま、立っている赤毛の男――フェリックス・ウォーケンこと、クレア・スタンフィールドに視線を返す。彼の本当の名前は私だけが呼ぶことを許されていた。

 

「まあ問題は無いさ。俺は困らないから。」

 

男は振り返り、誇らしげにそう言った。
喋れない。つまり私は誰かと会話をすることが出来ない。
だからといって字を書けないほど教養が無い訳ではないし、人の言葉を理解出来ない訳ではないので、最低限の活動には事足りている。
今更、子供の頃に父のために差し出した声に後ろ髪引かれる思いはなかった。父とだけ意志が通じればそれだけで幸せだった。

 

――父さん以外に話す人間などいなかったのだから、当然だ。

 

不自由に思ったことはない。今もこれからもその先も。

それなのに、今は言葉を紡げない自分がもどかしい、そして酷く詰まらない人間に思え始めた。この男の前では特にそうだ。どこか申し訳なくて何の感情も浮かばない顔を横にそらす。

 

「……。」


「ん?……喋れなくてごめんなさい?ああ、違う。俺は責めてる訳じゃない、ただ――」

「?」

「声が聞きたかった、それだけだ。きっとシャーネの声は綺麗に違いないさ。仮にも婚約者となる俺がそういうんだ。保証してやる。」

「……!」

「無理に喋ろうとしなくていい。声が出ないなら、俺さえ解ってれば良いんだしな。でも、いつかシャーネが俺の名前を呼んでくれたら、どんなに幸せかとは考えたかもしれないが。」

 

そんなに聞けたら良いものだろうか、私の声は。
でも、男は強要しなかった。そういった意味でも今まで私が出会って来たどの男たちとも違うのだとはっきり分かる。私を苦しめるような質問は避けようとしている。
それがどんな欺瞞より嬉しく思えて、警戒に集中させていたはずの心に響いた。

 

――ありがとう。

 

気付けば、自然に感謝の言葉が頭に浮かんだ。

 

「お礼を言われるほどじゃあない……が、シャーネに言われるとすごく照れくさい。なんでだろうと思う?」

 

平然と目を覗かれ問われる。解る訳もない。
ただ男が照れてしまった自分自身を笑って誤魔化した事だけは解った。ほんのりとその頬に赤みが刺している。人差し指だけ立てて思い付いたとばかりに私に近寄って来る。

 

「やっぱり、あれか。……そうに違いない。俺が愛する人からの言葉は、他のどんな奴等に言われるのと比べ物にならないんだろうな。」

 

 

 

 

 

――どうしてこの男というは、こんなに。

 

 

どうも性格上、正直すぎるきらいがある。会って日も浅いはずだが直感的にそう感じ取った。
誰もが冗談と取りそうな話を面と向かって伝えるこの男と、世間に「葡萄酒」の名を広めた殺し屋と誰が同一人物と考えるのだろうか。
けれども、それはあくまで表面上の話で、初めて顔を合わせた時から本心は窺い知れなかった。紡がれる言葉に一つも嘘はないのだが、意図が掴めない。
「クレア・スタンフィールド」という人間の世界は、価値観、人格、思想、どれ一つ取っても計り知れないのだ。その紅い瞳に誰が映っていても、この男にとっては夢幻に過ぎないと思えるほどに。

それでも、この男の世界の一部になることを私は選んだ。男もまた私の世界に入り込んできた。
父さん以外見えなかった私に、『決して裏切らない。』と約束して、誰よりも揺るぎない自信に満ちた眼で告げたのだ。

 

「さてと!今日はどうする?外に出て食事でもしようか?なんならこの辺りを観光しても良いかもしれない。」

 

 

――ゆっくりしたい。

 

と、私が答えを返せば赤毛の男がまた答えを紡ぐ。間もなく答えられた言葉に私は再び驚くことになった。

 

「ああ、ここで過ごすでも別に構わない。シャーネが一緒なら俺はどこでも大歓迎さ。」

「……!!」

「ははは、シャーネが可愛いからつい、出来心で……それは悪かった。反省してるから、謝るよ。ごめん。」

 

罰が悪そうでありながらも、その一方で無邪気な様子で男が微笑む。優しい笑みに絶え切れなくなり、頬の温度があがった顔を真下に顔を逸らした。

 

 

――呼んでみようか、この男の名を。



何故そう思ったかは私にも分からない。単純に僅かな興味があっただけかもしれない。

 

 

「つーか、今日はジャグジーの奴等……いやに静かすぎやしないか?いつもは俺らを見て要らないくらいうるさいのに。」

 

俯いて居た顔を上げると、男は窓に寄って外を伺っていた。ジャグジーの仲間が居ないのを不思議に思ったのだろう。確かに普段ならこの広い屋敷は彼らによって喧騒に包まれていた。
ただ今日に限って彼らは買い物や情報収集へそれぞれ赴いており、皆して出払っていたのだ。その為、今はいささか広すぎるこの屋敷には私達以外、誰もいなかった。

 

「しかし、この屋敷の庭は立派だな。手入れが行き届いてる。手先のすげー器用な奴でもいるのかな。……なんか心当たりのある奴が一人思い浮かんだが、それはありえん。あいつはここに居たらおかしい人間だ。」

 

一人事を呟き始めた男は、自分の考えを振り払うのに忙しくこめかみを押さえて悩んでいる。私もそれに習うかのように一人呟く。

 

 


――ク  レ  ア

 

 

 

声にはならないことば。
呼吸だけがあえぐ。

唇が音を紡ぐ形を取ったところで、私は我に帰った。

 

 

 

――私は無駄な事をしている。

 

名を呼んだ男は窓辺で外を見ているままだった。

やはり聞こえている訳がない。赤の他人である私達に特別なものがあったと勘違いしただけだ。
きっとこの男は類稀なる洞察力があって、動作や表情で心情を推測しているから、ある程度なら言うことが理解できるのだ。どうしたって声は取り戻せない。とうの昔に失われたものだ。だが、声にならずとも名前を口にしたかった。私の声を確かに聞いたこの男の名を。
私は願ってしまった。けれど、如何にしようと叶う訳がない願いに唇をかみ締める。結局伝えられないもどかしさだけが舌をざらつく。

 

 

――きっと偶然が重なった結果に違いない。だから……

 

 

 

 

ふと、窓の外を今しがた見ていた男がこちらを向いた。随分と驚いた表情で私を見ている。

 

「シャーネ、どうかしたか?」
「……っ!」

 

一瞬気が付いたかのようなそぶりだった。期待などしてはいけないと自らの甘さを振り払う。
あまりに――あまりにも偶然だ。
この男には聴こえていないはずだ。なんでもないと首を横に振る。

 

「何でもない……様には見えないな。よっぽど聞きたいことがあったんじゃないのか?」

 

――え?

 

「俺の名前を今、呼んだろう。眼を見た訳じゃないから、確信はないが……勘違いじゃあないよな?」

 

「!!」

 

 

 

伝わっていた。


その事実に急に恥ずかしさが込み上げて来る。肌が熱を帯びて行くのが自分でも感じられた。私は今更、全てを見透かした男の何を試したんだろうか。

 

――どうして分かった?

 

――何故?

 

数多の疑問が心を埋め尽くしてゆく。

 

「初めて呼んでくれたな、名前。俺の記憶が間違いないなら、これが最初だ。少しはシャーネに認めてもらえたって喜んでも良いか?」


「……。」


「どうして、かって?そりゃあ……シャーネ。お前のことなら、俺は全て理解したいからだ。だから解る。声がでなくとも、言葉を読み取る要素はいくらでもあるからな。――例えば、目の動きや所作、表情それから体温の上昇、唇、気配とか。まあ、こんな風に色々。これなら納得出来るだろう?」

 

可笑しい理屈に私は呆気に取られるも、偶然ではなかったと知る。確かにこの男は私が言う何かを聞いていたのだ。

 

 

 

「ところで――シャーネ。もう一回だけ。俺の名前呼んでくれないか?」


「……。……っ!」

 

目線を合わせ、しゃがみ込むと男は両手をとってそう懇願した。その手を振り払うこともできず、私はただその男を訝しげに思ったまま眼を見開く。

 

 

 

――何を。

 

思わずその言葉に耳を疑う。私は声が出ないのだ。それはいつからか絶対的に、永遠に。そもそも最初からこの男も分かっていたはずだ。

 

「駄目か?さっきのは随分な不意打ちだったから、とても驚いた。だから、俺を呼んでくれたのを堪能する暇もなかったんだ。まあ、その……頼むから呼んでくれ。」

 

恥ずかしさのあまり発する言葉に詰まった。確かに、呼びたいとは先ほどまで思ってしまってはいたが、いざ本人自らから願われては気まずいような何とも言えない気分になった。

そこで諦めてもらおうと、口を噤んで「無理だ」という意思を送ってみる。揺るぎない自信に溢れた眼がこちらを見つめる。このままでは気絶しそうなくらいに体が沸騰してしまいそうだ。だけれど、近くにいた男は力強く身体を背中ごと抱き寄せて、耳元で言う。

 

「無理強いはしたくないが、たまには俺の名前を呼んでもらわないとな。いくら俺が普通でなくても……一人の男に変わりはないんだ。寂しくなるだろ?」

 

酷く高慢で男らしい答えが返ってくる。それが何よりも嬉しくて苦しい。その熱で身体も感化されていく。言葉が発せなくとも、唇と心で私だけの言葉をこの男に伝えられる。これ以上もこれ以下でもない自分自身で、事が成せる。

そこに既に迷う理由もなかった。

 

 

――もう一度、その名を。

 

 


 

 

クレア・スタンフィールド

 

 

それが大切な貴方の名前。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クレア+シャーネが好きなら一度はやっとこうと思う、名前を呼ぶことに関しての話。

回送編直後なので、シャーネの言葉遣いはちょっとまだ硬めに。

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